第11回 ハンナ・アレント 全体主義が奪うもの
エピソード
【11-1】ナチスやソ連に代表される全体主義は人々から何を奪っていったのか?【全体主義が奪うもの】
【11-2】人間の活動は労働、仕事、行為の3つ?人間同士で行う活動である行為はどんな可能性を秘めている?【全体主義が奪うもの】
【11-3】善悪の判断基準は親?自分の中の他者が判断軸となる【全体主義が奪うもの】
【11-4】怪しい集団に吸い込まれる身内を救うには共通感覚が必要。それがなくなると善悪の判断でできなくなる。【全体主義が奪うもの】
【11-5】現代の平等主義はナチスが利用した擬似的法則を作り出すイデオロギーになりうるのか【全体主義が奪うもの】
はじめに
今回は、全体主義が人々から何を奪い、我々を思考不能な人間に至らせるか、ということについて話してい
全体の流れ
人間は共通世界を作り出していて、それが行為や人生に意味を与えている
善悪等々の判断力の基礎となっているのは、共通感覚である
共通感覚は、他者が存在する人間が関係によって作り出す共通世界によって、個々人の中で育成される
全体主義は、この共通感覚を作り上げている他者や関係性、共通世界を破壊していく
結果として、人々の判断力を失わせることになるから危険なのである
この判断力を失った人間を、全体主義は擬似的法則による論理でコントロールする
これに抗うために、他者と関わり縛られず自由に思考し予測不可能なものを生み出す行為をし続ける必要がある
判断力を形成する共通世界と共通感覚
人間間に生じる行為によって作り出された、人間関係の網の目である共通世界があり、その世界が人間の行為の意味、ひいては人生の意味すらも語る
アレントは、人間の条件のなかで、人間の行う活動を以下の3つ分類してる
労働 (labor) : 生命維持活動のために必要な食料などを生産して消費する活動
仕事 (work) : 生命活動とは切り離されていて、自然の素材に手を加えて具体的なものを制作する活動
自然の循環過程に抗して、人間が居住する「世界」の土台を作る活動とも言える
行為 (action) : 人間が他の人間と共に行う、人間同士の間で行われる活動
労働と仕事は自然を相手にしていたが、対象が人間。
この行為を持っていることが他の動物とは異なる人間の特徴
政治という、民衆が意見を交わし合い議論しあう政治の営みが、典型的な行為
人間が意思を持って行うが、それが他者との相互作用によって、予測不能な結果をもたらすという特徴がある
行為は、人間の間に関係を作りだす。その無数の連鎖によって、人間関係の網の目としての共通世界が作り出される。
その中で行為を行うと、他者に影響を与えそれによって他者が行為を行い、それによって行為がもたらす結果も変わってくる、という無限の相互作用が存在している。
その中で生きる一人一人の人生には意志があり、確実に本人のものではあるが、どのような意味を持つのか、ということは、相互作用の結果決定され、解釈される。
行為の意味は、その相互作用の結果がある程度明確になってからでないと明らかにならないため、一人の人間の人生の意味というのは、その人が死んでこの世界から退出して初めて完全な形で示される。
哲学者とか想像するとわかりやすい。
こうである以上は、自分の人生で行為として何をするか、が重要なのであって、その結果の解釈はある種自分ではできない、ということ。
結果として、一人一人の行為と人生に意味を与えているのは、人々の間に形成される共通世界である。
善悪も含めて、さまざま判断力の基礎となるのは共通感覚である 共通世界が各個人の集合として、世界に実装されるためには共通感覚が必要
共通世界を共有して受け継いでいくためには、一定の了解を可能にする基盤が必要であり、それが各個人に備わっている共通感覚
共通感覚自体は、五感の上位の感覚。内部の機関を統率して、一人の人格としての解釈をするのが共通感覚
共通感覚の形成は、他者との交流を通じて共感的なものを育みながら形成される
人は他人との交流を通じて、様々な感覚を一人の人間のそれとしてまとめ上げていく
それは他人との間の一定の了解事項(共感できるなにか?)を形成する作業でもある
そうした明文化されてない慣習や伝統の中で人間は生きている
共通感覚は、想像によって実際にはそこにいない他者を描き出す
何かを美しい、美味しいと判断する時、それは自分にとってだけではなく、他人においてもそうだろうと想定している
そう言う意味で、ほとんどの人間は自分の判断は普遍的とまでは言わないまでも、ある程度の一般的な妥当性を持つことを期待している
カントの判断力批判の中で、味覚や美醜についてこのようなことを論じており、それは人間はどんな立場にたっても考えることができる、ということである 共通感覚が重要なのは、単にコミュニケーションのためだけではなく、善悪判断の基礎にもなるからである この判断は善悪についても同じことが言える
いわば、自分の中の内なる他者との対話こそが、善悪を判断する基準であり、悪への誘惑を踏みとどまる最後の砦 親に言っても恥ずかしくない行動をする、最後の判断基準は親に言えるかどうか、とかはこれの最たる例だろう
全体主義が共通感覚を破壊し、判断力を失わせ巻き込む
全体主義は、そうした善悪を判断するための共通感覚を形成している人間同士の関係としての共通世界を破壊して、人々からまともな判断力を奪ってしまう
人は悪事を為した自分と一生付き合っていかなければならない
誰がみているわけでもなく、自分自身とその中にいる他者がみているのだ
そしてそのレッテルを貼られた自分と生きていかなければならない
先ほどの論理でいくと、人は善悪の判断をするためには、判断を共にできる人間を求めるということになる
死んだ人でも離れていても空想の人物でもいい
そうした判断を一緒にする仲間がどこにも見出せなくなると、人は善悪を判断する拠り所を失う
自分自身の存在を確認することさえできなくなる
人間を人間として成り立たせているのは、人々の間に結ばれた有形無形のつながりによって形成される「共通世界」である
自分自身の存在もそこで初めて認識できる(アイデンティティみたいな)
物事を判断するための共通感覚も、そうした他者との関係がなくては育成することができない
全体主義は、そうした善悪を判断するための共通感覚を形成している人間同士の関係としての共通世界を破壊して、人々からまともな判断力を奪ってしまう
判断力を失った大衆は、論理による強制により参加していくことになる 一人ひとりがバラバラにされて、一切の拠り所を失うと、判断能力も、自分の居場所も、自分自身が生きているかどうか、もわからなくなるところに最終的には行き着く
近代社会もここまではいかないにしても、似ている
近代社会は他社から切り離され、内面的にも解体された人間を大量に生み出した
互いに無関係、無関心なz人間の集積としての「大衆」は、我々自身の姿でもある そうしたバラバラで孤独な人間の集積を動かすのは、論理による強制である
人間の精神の能力で、何にも依存しないものは、論理的推論の能力である
これは、自己も他社も世界も必要とせず、経験にも思考にも依存していない
2+2=4というのは、どんな状況でも誰がいても変わりえない事実。(1+1=2でよくね)
これは、判断能力や進むべき道など、共通感覚を失ってもなお頼ることのできる唯一信頼できる真理
全体主義が論理によって大衆を惹きつける
それぞれが惹きつけられているもの
モブやエリート
運動それ自体を目的とする行動主義
大衆
イデオロギーが示す論理的必然性
例えば、
ナチスの人種主義のイデオロギー
人種間の闘争は自然の法則である
スターリン体制のマルクス主義のイデオロギー
階級闘争は歴史の必然である
この必然性に従わなければ、敗者の一員として没落する、と言われる
確かに今でも、科学に勝る論理を生み出すことができれば、社会の情勢によっては、同じことが起こる可能性はあるな、と思った
全体主義の支配に抗うために
この時点で、イデオロギーの形は変容している
この論理による強制には、元々イデオロギーが持っていた理念や目標、そこに至る筋道などの政治思想的な内容はもうない
これも、ヒエラルキーによる分断によって疑いの目を持つ人がいないからこそ成立するのかな
19世紀のイデオロギーでは、まだ人々に世界の意味と自分の位置を知らせる「世界観」があった
しかし、このイデオロギーが、全体主義が大衆を動員するための手段として用いられ始めると、その意味はなくなる
こうなると、本来イデオロギーが持っていた実体的内容は「観念」の論理的強制の中に呑み込まれる
雰囲気しかわからん、マルクスのやつ読めばわかるかも
全体主義の支配に抗うために必要なものとは
擬似的法則でもバラバラにされた人間には意味を持ってしまう
厳密に言えば、数学的な論理と、人種主義や階級闘争の必然性とは、性質が異なる
人種の優劣や階級闘争の論理は、19世紀の自然科学の理論から借りてきた法則を人間社会に当てはめた、類推に基づく擬似的法則でしかない
しかし、それでもバラバラにされて拠り所をなくした人間にとっては十分に意味を持つ
これは時代遅れのものではなく、現在にも起こりうる
優生思想や階級闘争とだけ聞くと時代遅れに感じあるかもしれない
しかし、今日でもこれに変わる真っ当そうなイデオロギーの可能性はある
例えば
平等主義
人間は生まれながらに人類という種族に属する個体としては等しい
ゆえに、全ての人間は平等でなければならない
努力評価
各人の努力の成果はその人個人の権利であって、努力に基づいて生まれた際は尊重されなければならない
人々の努力によって社会は進歩してきたから努力は評価されるべきである
この両方ともが、「人類社会の福祉」あるいは「人類の進歩」という擬似的法則によって人を強制するイデオロギーとなりうる性質を持っている
人が自分の経験に基づいて思考をすることをやめ、論理の矯正に身を委ねると、これらに意を唱えるものを、「人類進歩の敵」「人間社会に害をなす異分子」として排除する全体主義のイデオロギーが生まれてくる可能性は十分にある
しかし、これらは、数学的な論理の矯正や自然の法則とは似て非なるものであるからこそ、抵抗することは可能なはず
人間は論理的な推論に完全に取り込まれてしまう存在ではない
複数の人間の相互作用の中で行われる行為は、常に予測を超えて新しいものを生み出す可能性を秘めている
この予想もつかなかったことを始めてしまう人間の能力(全体としての)は、イデオロギーによる論理の専制を打破することができる
全体主義の支配に対抗するためには、人々が自らの行為によってどれだけ自由な「運動の空間」を作り出すことができるか、にかかっている
自由に他者と関わり相互作用の中で、共通感覚を育みつつ、予測不可能なものを生み出していけるか、特定のものに縛られずにその範囲を広げていけるか、という意味として理解した
その土台として事実が重要になる